「”一人”でも”共に”生きる」

 

「一人でも共に生きる」

 

 

そんな名言を聞いたのは、つい数刻前のこと。

 

 

 

そもそも「一人」なのに「共に」という矛盾がある言葉だが、これにはワケがある。

知っている人は既にご存じだと思うのだが、「共に生きる」とは東日本大震災被災者支援の一種のスローガンに用いられている言葉だ。

「いつだって心の中には、私たちの胸の中には家族がいる。」

たとえ居なくなってしまったとしても、遠く離れた存在になってしまっても、「いつだって側にいる」という想いが込められている言葉だ。

 

 

 

そんな、どこかアニメの中の名台詞のような言葉を、本気で思っている人もいるのだ。

「今でも私の胸には、おっかさんがいるだ。」と。

 

 

 

東日本大震災……もう7年も経つのかとしみじみ思う。

スーパーから食品が消えたり、水道が止まったり、計画停電という間接的な影響はあったものの、私は直接的に大きな被害があったわけではない。だから、既にあの衝撃的な出来事も風化していっているように感じてしまう。

 

逆に、もし私に直接的な被害があったのならば、絶対に忘れないとさえ思う。

私はものすごく感情的に物事を捉える部分が多々ある。

「俺ん中には、今でもお母さんはいるよ」と言っていた側だったかもしれない。

 

 

 

 

「他人と比較する」という行為は、私自身もあまり好きではないけれど、無意識的に行ってしまうこともある。

たとえば「お金」のこと。

他の人と比べて給料が高いとか、低いとかそんな話。

 

 

「お金」って、「あればあるほど困らないもの」だけど、それを他人と比較して一体何になるのか。全く同じ生活水準でも目指しているのだろうか?

 

 

 

 

被災者の方々の生活の一部を覗いて見ると、人って意外と生きていけると感じてしまう。

本当はもっと贅沢して、豊かな生活を望んでいる人もいっぱいいると思うけれど、「そこそこ」を目指している私にとっては、変な高望みなど一切していない。

宝くじで1億とか当たったら考えるけど、そもそも宝くじすら買ったことない人間だけど。
私は基本「ギャンブル」ってしないんです。
パチンコも競馬もボートレースもやったことありません。
絶対に勝てると勝算があるなら挑戦してみたいと思います(笑)

 

 

 

 

 

 

「一人でも共に生きる」とは、亡くなった方の記憶を胸に刻んで、今生きている人が力強く生きていくこと。

……のような捉え方が一般的に正しいように感じますが、私はどちらかと言えば「後者の部分だけ」の方が大衆的なのかな…と。

「今生きている人が、力強く生きていく。」

 

私は弱っちいですが(笑)

 

 

でも、弱っちいからこそ、周りの人に助けられながら生きていくのです。

一人でがんばっているように見えるけれど、実際には周りの人と関わりながら生きているよね?ってこと。普段はまず意識すらしてませんが(^_^;)

 

 

「一人でも共に生きる」

近しい方が亡くなってしまった悲しみはあるでしょうが、その記憶は胸に留めるだけ。内にばかりに心が向いて、閉じこもってちゃいけない。

救いがほしくて差し伸べられた手に、私たちが引っ張り上げてやるといった気持ちでありたいですよね。

助けが欲しい人を見つけたら、がんばって引っ張り上げてやりましょう。そして、私たちが助けを求める時がきたら、誰かが引っ張ってくれる世の中であってほしい。